2015年12月27日日曜日

2015年 今年読んだ本 ベスト10

 ベスト10を書くのは数年ぶり。今年2015年は、結構いい本に巡り会えた。ベスト10を選べる程度に。今年僕がたまたま読んだ本のベスト10であって、今年出版された本ではないことも付け加えておくことにします。

第1位 高野秀行「謎の独立国家ソマリア」(本の雑誌社)

 すごいルポ。でも著者が高野だから、旅をしているようなのである。久々に大興奮した大著!

 全土がリアル「北斗の拳」状態だと多くの人が信じている崩壊国家と言われる旧ソマリア。しかしそこに、独立を宣言して十年以上も平和を維持し、民主的な選挙で大統領を選び、平和裡に政権交代が行われている「国」が存在する。著者によると、国内に紛争を抱えているタイやミャンマーよりもずっと安全なのだそうである。それがソマリランド。独特の氏族社会、その掟、独立後の2度の内戦から学んだとんでもない知恵・・・・。著者は夜な夜なのカート宴会でその秘密を探りだす。そして、日本の2院制なんて意味がない、と喝破してしまうほど「正しい」独自の議会制度、民主主義の仕組みを作り出した秘密を暴き出してしまうのである。

 当たり前だが、政治や民主主義を語る本ではない。何しろ高野である。基本的にUMA(未確認生物)を探す探検と同じように、彼にとっては、発見されていない未知の事実を探る旅なのである。無茶苦茶な旅なのである。そして、それを追体験できる幸せなのである。


第2位 角幡唯介「空白の五マイル チベット、世界最大のツアンボー峡谷に挑む」(集英社)

 地球上に残された地図上の最後の空白地帯、グランドキャニオンよりも数倍も広くて険しいとされるチベット・ツアンボー峡谷の人跡未踏の5マイルをたった一人で踏破する2回の大冒険。
 個人にとっての大冒険というのは、いつだってまだ十分に残されているんだけど(子供にとっては「はじめてお使い」だって大冒険だ!)、人類史における冒険というのはというのはこの地球上ではもうそんなに残されていない。という残念な状況のなか、大学時代を冒険部で過ごしていた著者は、ふと手にした本でツアンボー峡谷のことを知ってしまう。そして、大学時代の偵察行、1回目の単独行。さらに、7年後に仕事を辞めての2回の単独行。
 スリリングである。温ぬくとした部屋で読むのが躊躇われるくらいに、スリリングである。様々な経験をしたトップ級のカヌーイストが「生きて帰ってこられないかもしれない」と言いつつ旅立って、実際に遭難してしまう・・・・そんな厳しい川や峡谷を目の当たりにしたことのない僕は、著者の冒険を本当のところで理解することはできないのだろうと思う。そう思いながらも、引き込まれていく。命の極限に身を置きたい、まだ見ぬ地を見てみたい、誰もやったことのないことをやり遂げてみたい、それは人間の持つ本能のようなものたろうか、でも結局そういうことができない僕は、ただ本を読むのである。そして、行った気になる。


第3位 網野善彦「日本の歴史をよみなおす(全)」(筑摩書房)

 20年前からのベスト&ロングセラー。
常識は疑われなければならないし、学び続けなければならないということを改めて知らしめる一冊。例えば、中世・近世の日本が決して農業社会ではなかったということ。人口の90%が「百姓」であったが、「百姓」=「農民」というのは近代が解釈した間違いであったということ。もともと「百姓」は百の姓、つまり市井の一般の人々をさす言葉だった。漁民も森民も商人も工人もすべて「百姓」であった。そういうことが、ここ数十年の研究でわかってきた。そんなことがいくつもいくつもあって、こんなに鱗があるのかと思うほど、目から鱗が落ちた。
新しい研究の成果を長い間知らずに、かつて学校で学んだことをそのまま真実だと信じて生きてきたここ数十年。すでに真実ではなくなったことをあたかも真実であるように話、発言をしてきたんだうろなーと思うと恥ずかしい。もっと早く読んでおくべきだった。


第4位 石井光太「浮浪児1945-戦争が生んだ子供たち」(新潮社)

 終戦直後、上野駅周辺は空襲で焼け出されて身寄りがなくなった「浮浪児」が溢れていた。全国では12万人以上の戦災孤児が生まれたらしい。
 いつの間にか彼らはいなくなり、そして「居なかったこと」になっていないか? 人々の記憶にも、歴史の記録としても残っていないのではないか。 戦後70年が経ち、当時の浮浪児の多くが鬼籍に入ろうとしている現在、いま記録しておかなければ永遠に「居なかったことになる」との危機感を持った著者は5年の歳月をかけ、元浮浪児や彼らを「保護」した施設の関係者などに取材を重ねる。
 彼らは悲惨で、一方で逞しかった。しかし、戦争さえなかったら、せめてもっと早く終わっていたら、彼らはもっと別の人生、多分少しはマシな人生があったんたろうと思うと、切なすぎる。

 世界を眺めると、今でも子供たちが戦争や紛争のもっとも悲惨な犠牲者になっている。


第5位 辺見じゅん「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」(文藝春秋)

 11年。シベリアの収容所(ラーゲリ)に閉じ込められて、強制労働と飢えと絶望に耐え続けた時間である。抑留者の1割強、約7万人が帰国することなく亡くなった。その中の一人は巨星であった。誰もが絶望を感じて下を向いて強制労働へ向かう隊列のなか、一人空を見上げて、シベリアの空の青さを讃える男。驚くべき知性と、ユーモアと、そして抑圧や拷問にも屈しないしなやかな精神力。自然とその巨星の周りには人々が集まった。
 しかしその巨星は癌に侵され、シベリアの白樺の根元に眠ることになる。その男が書いた遺書。母親と、妻と子ども達に当てた遺書。しかしそれは普遍的で、収容されたものすべての代表しているようであった。したがって、それは絶対にその家族の元に届けなければならないものだった。
 日ソ共同宣言が調印されて、すべての抑留者が帰国できるようになってからでさえ、一切の紙片さえも持ち帰ることができない中、彼を敬慕する仲間たちは驚くべき方法でその遺書を持ち帰り、彼の家族へ届けた。なんと、分担して記憶して帰ったのである。そして再現した。
 収容所のなかでその男が辿り着いた思想。それは子ども達宛の遺書や、没収されてしまいはしたが少しだけ仲間が垣間見た「平民の書」に書かれていた、資本主義でも社会主義でもない「第3の道」。あの状況になかで、すでに「第3の道」に辿り着いていたという、それは驚異的なことであろう。
 収容所での労働、生活、その他様々な活動、出来事を生々しく描くと同時に、極限の状況のなかでも、人間は知性的で、創造的で、逞しくあり得るという希望を描き出した。日本人における「夜と霧」である。


第6位 村上春樹「職業としての小説家」(スイッチ・パブリッシング)

「学校というものが僕は昔からわりに苦手でした」「勉強するという行為自体がもともとそんなに好きではなかったなかったし、実際あまり勉強しなかった。」
 それで何をしていたのか。「本を読むことは当時の僕にとって何より重要でした」「本について言えば僕は、なにしろ実にたくさんの種類の書物を、燃えさかる窯にスコップで放り込むみたいに、片端から貪り読んでいました」「もし本というものがなかったら、もしそれほどたくさんの本を読まなかったなら、僕の人生はおそらく今あるものよりもっと寒々しく、ぎすぎすしたものになっていたはずです」
 小説家 村上春樹を作ったのは読書だった、とてつもない読書量だったという話。


第7位 村上春樹「ラオスにいったい何があるというんですか?」(文藝春秋)

ラオスだけではなく、ボストンもフィンランドもアイスランドもトスカーナもギリシャの島々も、世界には何て素敵なところがあるんだろう。羨ましい豊かな時間・・・。でも、最後の熊本の旅も素敵なのである。村上春樹が行くところ、どこも素敵なのである。つまりそれは、素敵な場所が絶対的にあるのではなく、どこの場所にも素敵なものがあり、それを見つけることができる人と、そうではない人とがいるということだろう。ここではないどこかを探すのでなく、今ここにある素敵を見つけることができたほうがきっと楽しい人生に違いない、てなことを考えさせてくれる本であった。


第8位 日比善高「いま、大学で何が起こっているのか」(ひつじ書房)

 国は「国立大学に教員養成系、人文社会科学系の学部は不要で廃止するか他分野への転換に取り組むべき」といい、内閣府の産業競争力会議が「大学改革」を唱える。貧すれば鈍するとはまさにこのことで、ただでさえOECD諸国なのかでは極端に少ない高等教育・研究関連の予算をさらに減らしながら、成果を出せという。著者は言う「革新的イノベーションは、どこからやってくるか予想が付かないから、革新的なのである。逆に言えば予測可能な範囲内にある成果は、革新的とは言えない。だから限られた予算を有力な分野に振り向けるという戦略は、短期的には成功するかもしれないが、長期的には失敗する」。
 大学ついて、著者は「何かをしなければならないという強い責務がない状態は大事だ」とし、かつては「モラトリアム」の名の下に批判されたが、いまや「猶予期間」の大事さを思う、と書く。「学生にとって大学は「実」を結ばせる場ではなく、「種」を獲得する場である」。いちいちがもっともの話であった。


第9位 スヴァンテ・ペーポ「ネアンデルタール人は私たちと交配した」(文藝春秋)

 我々の中にネアンデルタール人のDNAが残っいる・・その事実については、まあだからどうした、というくらいの感想しかないのであるが、その事実を明らかにする過程がスリリングである。というか、真の科学者というのはここまで「科学」に対して誠実であることができるのだということに感動した。。
 掘り出された古代のDNAにはすでに現代の微生物や人のDNAが混入している。それらから目的のDNAだけを取り出し、増幅する。だが、目的のDNAだと思ったものがやはり混入した現代人のDNAだったりする。様々な設備や装置や仕組みを自ら開発し、2重3重のチェックを自らに課し、そしてたぶん科学ではもっとも重要なことの一つ「再現性」に徹底的に拘っていく。そうして、長い長い道のりを経て真実を明らかにするのである。
その間に、ライバルたちは数万年どころか恐竜のDNAまで解析したと、サイエンスやネイチャーなどの有名な雑誌に発表していく。しかしそれらはすべて、科学的には不誠実な態度で、再現性もなく、実際に間違っていた。メジャーな科学雑誌もまた、実は「科学」に忠実というよりも商業主義的なのである。正しい道を歩んているという自覚と自信があっても、それはそれは苦しいものだったに違いない(と、著者も言っている)。
 読んでいる間じゅう、STAP細胞を巡る「捏造の科学者」(文藝春秋)を思い出していた。小保方さんや笠井さんが、スヴァンテ・ペーポほどに「科学」に対して誠実に向き合い、つまり「再現性」に謙虚に向き合う勇気があったなら、そしてスヴァンテ・ペーポがすでに喝破していたように著名な科学雑誌が極めて商業主義的であることを理解していたなら、あの事件は起こらなかったに違いないと。


第10位 森達也「すべての戦争は自衛意識から始まる・・・「自分の国は血を流してでも守れ」と叫ぶ人に訊きたい」(ダイヤモンド社)

収められているすべての論考がISによる後藤さんらの殺害が起こる前に書かれている。したがって、ISに対する論考はない。しかし、この本からわかることは、あるいはこの本が思い出させてくれるのはISの行為が、僕らが知ることのできないような特別なものでは決してないということである。

 この本は思い出させてくれる。原爆による大虐殺があったこと。ホロコーストのこと。カンボジアでポル・ポト政権がやったこと。ルワンダで隣り合った住民が斧や鉈で殺しあったこと。今もまだスーダンで悲惨が続いていること。そして、かつて日本が東アジア、東南アジアで行ったことを。

 人間というのはこういうことをするものなんだ、というところから思考しよう、と言っているのだと思う。僕らもそうなりうるということ。そして、その流れはいつしか止められなくなってしまうこと。そういうことを繰り返してきた人類は、多分これからも繰り返すかもしれないということ。だから、今その流れがまだ小さいうちに止めてしまわなければ・・・・ということ。



1位は圧倒的で、2位以下については順位はテキトー。甲乙付けがたい、というやつ。

うーん、やっぱり今年のではない本が多い。積ん読していた本たちと、あとは・・・。今年話題の書「21世紀の資本」もまだ完読できていないって・・・・。さて、読み終わるのはいつになるか。

その他、今年読んでよかった本はこちら。→ http://booklog.jp/users/midnight1124



0 件のコメント:

コメントを投稿